浮世絵で見る神田・新宿

第6回 江戸四宿・内藤新宿
〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:内藤なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸のベンチャービジネス

四谷の話は何となくわかったけど、新宿の宿場町はいつ頃できたの?

キミの言う「何となく」っていうのが凄く心許ないんだけど、まぁ、話を進めよう。内藤新宿は浅草の名主・高松喜兵衛以下5名が元禄11年(1698)に5600両の上納金を条件に幕府から営業権を得て、開発が始まった。

5600両って今の価値に換算するといくらぐらい?


だいたい1両が10万円というところだから、5億6千万円ということになるね。これは喜兵衛たちが何とかかき集めたんだろうね。今で言う投機ですよ。江戸のベンチャービジネスだな。宿場町ができれば、億単位の回収なんかあっという間だからね。

あら、宿場町ってそんなに儲かるものなの?


そりゃ儲かりますよ。まずは本陣でしょ、旅籠でしょ、茶屋に酒楼に、いろいろとお楽しみもあるし…。

お楽しみって何よ? 何だか怪しい。


その話をする前に、内藤新宿の概要について説明しておこう。あった場所は今の新宿一丁目から三丁目の甲州街道沿いだけど、当時の地名は四谷だったから、別名「四谷新宿」ともいう。整備にあたったのは、前に言った5人に加えて5人の商人、人呼んで「元〆拾人衆」だ。

なんだか時代劇に出てくる悪い集団みたいな名前ね。


あははは。確かに。もともとこの地には幕府が移転を命じるまで信濃国高遠藩の屋敷があった。高遠藩の領主が内藤家だったから、以前からこの近くにあった小さな宿場が「内藤宿」と呼ばれていた。そこで、新しい内藤宿ということで「内藤新宿」になったわけ。

そうかぁ。新しい宿場だから新宿なんだ。


10人衆が街道や周辺地域を整備して内藤新宿を開設したのが翌年の元禄12年(1699)で、規模としては四谷の大木戸から「追分だんご」のある新宿追分までの東西約1km。西の方から順に上町、仲町、下町という風に分けられていた。

なんだかお団子が食べたくなってきたなぁ。


追分だんごの歴史は太田道灌の時代からって言ってるからねぇ。本当かどうかはわからないけど。喜兵衛たちの狙い通り、大名や旗本が宿泊する本陣が出来ると、今度は庶民向けの旅籠や茶屋がどんどん増えていって、やがて風俗産業も盛んになっていった。

ははぁ、さっき言ってた「お楽しみ」っていうのはそのことね。


当時、宿場に遊女を置くことは禁止されていたから、表向きは宿泊客に食事の世話をするという名目で「飯盛女」という宿場女郎がどんどん入ってきて、内藤新宿は江戸でも有数の色街に発展していくんだ。

いつの時代にも表と裏があるのねぇ。


しかし、これは将軍吉宗の時代になって内藤新宿廃止の原因にもなる。要は、宿場町としての機能よりも色街としての賑わいの方が有名になってしまったからなんだ。これが享保の改革を進めていた吉宗の癇に障ったんじゃないかな。享保3年(1718)に内藤新宿の廃止が決まる。

え〜、それじゃあ、その時に内藤新宿は終わっちゃったの?


その後何度も不便だから何とかしてよという請願が起こるんだけど、全て却下された。やっぱり幕府としては風紀上の問題を見逃せなかったんだろうね。やっとのことで再開が許されたのは明和9年(1772)だから、54年後ということになる。

54年もの間、内藤新宿は歴史から消えていたのね。知らなかったわ。

別にキミじゃなくても、大抵の人は知らないよ。では、なぜ再開が許可されたかというと、宿場町というものの制度上の問題が表面化したからなんだ。まぁ、その辺の詳しい話はまた次回にね。

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